ライブを観(2021/12/8)

バーチャル・ライバー月ノ美兎さんのワンマンライブ『月ノ美兎は箱の中』をニコニコのタイムシフト配信で観た!

とっても良かった。私生活が忙しくて何度も何度も見返すということはできなかったんだけど、それほど後悔してない

月ノさんのことを一年と少しくらいしか追っていないので浅っせえ!と思いたくない方は見ない方がいいかもしれないです。すみません。半分、自分用にあとから見て思い返せるようにのやつなので当たり前だったり支離滅裂だったり読む側に不親切だったりします

 

 


すべてが良かったのですが、強く記憶に残っている部分を視聴中のメモからかいつまんで箇条書きにします。記憶なのでむらがあり、言葉にすれば後半のほうが多く残ってしまっていて、全部については触れられていないです。

 

 

 

 


コンサートやライブに自分から現地参戦したことがない。これは月ノさんのという意味ではなく、人生で一度も、アルバイトでかつてスタッフとして居合わせたことはあったけど、予定を空けてチケットを取って、その場の空気の一員になるためにライブに行くということをしたことがまだない。配信でライブを観たことも片手の指に収まるくらいの回数なので、ステージ全体の音響照明進行空気感、歌やダンス、映像といったものがクオリティという意味でどうだったかというのは正直まったくわからないんだけど、画面越しでもひとつひとつ場面が切り替わるたびに精巧なとびだす絵本を読んでいるような印象をうけて、ずっと息を殺すようにして見入っていた気がする。

ライブが終わって、画面から目を離して、大きく息を吸い込んだとき、さっそく記憶が初めから順番に薄れていくのを感じて慌てた でもそのときの感動はそのときだけのものだから、ある意味では正しい形かもしれない

 

 

 

冒頭からオープニングの時点でつくりこまれたコンセプトを強く感じて、ライブというか、ライブなんだけど、それを包含したひとつの話がはじまるぞという気持ちにさせられた。一曲目が光る地図だったのも、その余韻を壊しきらない繋ぎになっていたように思えて、とてもよかった。姿の全体や声や、息の吸ったり吐いたりといったものが舞台と音楽と融けて夜景のような光の塊になり、わたしはたんなる歌と踊りを見に来たのではなくて、歌と踊りによってつくられるこれを見に来たのかもしれないと思い ライブってそういうことなのかなとも思った

まだ/近くても遠くてもいい/見えている誰にも わからない/たしかなものがなくなり 光りだす/それを見て いたいのです いつもただ という歌詞がとても好きです

配信上でなく私たちがいる世界の舞台の上で歌やダンスが行われるということが、ライブ前も後もいまも何か 切り離されたもののように思えてしまうときがある。私にはyoutubeの画面の中で雑談をしてくれる月ノ美兎の延長として舞台上で歌い踊る彼女がいるということが本当はよくわかってないのかもしれない

光る地図、アルバムの中で特に好きな曲で、初めに歌ってくれてとても嬉しかった。月ノさんは誕生日の三日後にもyoutubeでライブをされていたんだけど その冒頭でも歌われていて、すごいことだけど普通に無料でアーカイブが残っている 今観返してるけど、曲が終わってからニッコリして起立! きをつけ! って言われるところの神々しさがすごい

 

 

 

 


そこからの三曲ぶんくらい記憶がおぼろで、ウラノミトの「いつだってそうだったんでしょ」のところでiPhoneのメモを開いたことは憶えている。悔しい。絶対に見ていたのに見過ぎて憶えてない。見過ぎて憶えてないとかあるんだ

 


どれもそうなんだけど、ウェルカムトゥザ現世はライブで聴くと特に映える曲なのかもしれないと感じた。ベースやドラムがぶいぶい言っていて格好いいからかな。後半若干息が切れていて、それが余計に良かった。

みとらじギャラクティカ、八月のARライブでも完璧だったけど完璧で、めちゃくちゃな努力というか…もうどう言っても私が言うことで薄っぺらくなってしまう気がするんだが…を感じて圧倒されてしまった 嵐みたいだったな とつぜん目の前に飄々として出てくるものが、明らかにその背後に積み重なる無数の熱を感じさせるとき、異次元的なすごみにぼうっとしてしまう 怖いけど、現地に行ってみたいな、一度は、とこの曲を聴いていて思えた

 

 

 

恋?で愛?で暴君です!のサビの歌詞に殴られてライブを観たあともしばらくyoutubeで原曲を聴いていた ハートが君と出会うために準備してたみたいね…… 

 


NOWをの「百万ドルも目の前通り過ぎる 自意識のワンマンショー」という歌詞が尖っていて大好きなんだけど、なによりいいのはその歌詞が在ることよりそれが本人の口から出ることだと思ったので(それは全部では?)、なんか……見ちゃっていいのかな こういうものを という気持ちになった。あと、有観客でも観客は声を出してはいけないことになっていて、そこでスクリーン越しの彼女が耳を澄まし、沈黙をつくり、乾いた声で「なんの声も届いて来ない」「なんの声援も届かない」と言い捨てるところがとてもよかった(振り返り枠で、この時勢をふまえての歌詞かもしれないというのを聞いてなるほどとなっている NOWってそういう)

もし声援が実際に届いていても(歌詞だから)同じことを言ったのだと思うしそれはそれで違った興奮があるだろうけど、歌詞の全体的なミーニングというか雰囲気である、彼女がどれだけたくさんの人に応援されたりしていたとしてもどこまでもひとりで、理解されない部分や見られえないどこか遠くの「自分自身」を抱えていること、そのある意味では必然的な孤独のむなしさ、気丈さみたいなものを(全部妄言なので実際どうかは知らない、本当にすみません)、多くの観客がいる前で言い放たれている感じがして、なによりもそれを実際にやってしまわれていることにゾクゾクした。あとは、こことそちらにはどうやってもいくらかの断絶があるのかもしれないみたいなこととか。音源としてではなく、なまの言葉として突きつけられた気がして、うわーライブってこういうことなのか…と思った(二回目) 近づけば近づくほどオタクはおのれがなんにもできんことに気づく

 


それゆけ!学級委員長の間奏で「時差的なものがあると思うんですけど、そちらとこちらで」といったような台詞を、この配信の画面に向けて言ってくれたとき、(リアルタイムで観ているファンはコメントでの反応がどうしても数秒遅れてしまうから、その意味での時差だと思うんだけど、)タイムシフトで観ている私にはこの、タイムシフトのぶんの時差まで言ってくれている気がして勝手にとても嬉しくなった キモくてすみません

Moon!!は聴きながらコメントも読んでいた。目指すは一流 のところではもう一流だよといったコメントがたくさん流れていたし私もそう思ってたけど、振り返り枠でけっこうきっぱりと、まだもっとやれる、と言われているのを見て、本当にすごい人なんだなと思った。そのときの最高を出した後に、将来自分はまだもっとやれる、と人前で言うことってたぶん勇気がいることだと思うから

 


最後、アンチグラビティ・ガールを叫ぶように歌われているのをみて画面の前でぼうっとしてしまった 「まるでファンタジー すばらしい日々だな」という歌詞が好きだと、月ノさんの誕生日三日後の歌配信を観ていて気づいた。曲も歌詞も結構前から知っていて、好きだったけど、なんというかそれよりも一段階上にある、うまく言えないけど、より中身のある理解(それでも一年少しのにわかのショボい浅さの理解なのだろうが)をともなって。彼女自身がその歌詞を口にするたびに、毎度それらのひとつひとつの瞬間や日々が彼女自身の手によって、彼女に愛された日々として……日々とはつまり選択であり結果であり人生であり、目の前の景色であって……わたしたちの前にあらわれる気がして好きだな。そうしてそれがこのライブの(仮)でないラストパートを飾っているということも。誕生日三日後配信の最後の弾き語りを、たまに思い出したように聴きなおしている。

「箱の中」について。ライブのタイトルが明らかになったとき、どこかで聞いたダンボール箱に入って出待ちを回避したエピソード(どこかというのはエッセイなんだけど、最後の朗読を聞くまで上手く思い出せなかった)の「箱」とライブ会場の「箱」がかかってるのか〜良〜…と思っていたが、Wonder Neverlandのソロでのカバーを聴きながら、彼女が所属するプロジェクトという意味の「箱」という意味もあるのか…もしかして…となっていた 箱推しとかで使われる意味の箱。それで振り返り枠を流していて、さまざまに解釈できうると思うといったことを本人も言われていて、どう解釈してもとても素敵なタイトルだなと改めて思っていた

オープニングの、四肢をたたんで箱の中にぴったりおさまっている姿のどことないおごそかさは、なんとなく電源がつく前のロボットを思わせた。でも、ロボットじゃない。箱から起こす身体と、開く瞳はだれのものなんだろう。それでも、舞台の上に確かにいたのだなと思う。

最後の朗読、録音だと思っていたが生だったのか どんなフィジカルをされているんだ

どこかの(多分最近だと思うけど)配信で、残るのが嫌だからどんなにいいところでもめったに泣かないようにしている というようなことを言っていたのを思い出している。好きだ…

 

 

 

 


技術がどんなにあがっても、画面の向こうのひとだ。でも、それは向こうからこちらへだってそうだ。バーチャルyoutuberバーチャルライバーに触れて一年と少し経っても、全然わからないままでいる。たまにわかったような気がするけど、そのたびに何もわからなくなる。誰を見ているのか?何を見ているのか?

「自分がリアルである」ということを自覚することってとても難しいことなのかもしれない。仮想現実が現実あってはじめてなりたつのに対して現実であることは何と対比してあるものでもないから。現実とはなんだろう? 自分がここにいることの確かさは、意識すればするほど曖昧で不透明にみえる。「自分が仮想である」ことを自覚していたりそう言及したりする存在には「自分が仮想であるということをおのれの存在する現実というフィールドの中で理解している」という文脈みたいなものが前提として含まっていて、そういう意味でなんというか歪みがあると感じている。そうして、歪んでいるからこそそうでないよりも確かななにかがそこにあるような気がする。私たち……ここにいて、現実世界を生きていると自分で思っている私たち……のほとんどは、現実世界とそこに地に足をつけて存在する己というものを信じている。そして、結局画面の向こうには、私たちと同じ人間がいるのだ、と、見たこともないのに当たり前に信じていて、そのうえでそうでないことを信じることにしている(のかもしれないと思う)。とても脆くて、逆に確かでもあると感じる。存在は約束だと思う。バーチャルyoutuberバーチャルライバー本人と視聴者が約束をかたく守り続ける以上、かれ彼女らは息づき続けることができる。

仮想現実と現実の何かしらをいいたいわけではなくて、かれ彼女らの存在はおのれ自身が生み出したものである というただそのような意味で、だからたとえばかれ彼女らの口から出る「生まれてきてよかった」、とか、そしてファンの口からでる「生まれてきてくれてありがとう」とかには、受動的にデザインされ産み落とされた私たちについてのそれらにはない重さのようなものがあるんだろうなと思っただけです。私の場合がバーチャルYouTuberだっただけで、こういう感覚はべつに偶像として視られるあらゆるものや人についてもそうなんだろうけど

なんにせよ、かれ彼女らの誕生の事実は、確かさのおぼつかないどこかの魂の選択によるもので、そのことが私にはときどき、恐ろしくなるほど美しくうつる。それが何なのか、何として存在するのか、そうしてこちらは何をどこまで見て、聞いて、享受し、それをどう捉えればいいのか、ということを私はずっと考えて、そちらとこちらの接触や摩擦によって起こるいろんなことにわけもなく落ち込んでしまうんだけど、それでもこういうときだけはこの人を、ほかでもない、解き明かす必要のないこの人格と存在、として応援できている気分になる それはたぶん、そういうことが全部どうでもよくなるくらいに大きくて大事なものを目にしているからだと信じている。そこにいてくれてありがとうございます。

 


きちんと確保できる時間がないかと思ってけっこう迷っていましたがネットチケットを買って観ることを選んで本当によかったです。あと直近のリトルナイトメアの実況も本当に良かったです…