ありえないからこそあるような

 

 

作るものと作られるものがそれぞれあって、
ひとが自分自身をコンテンツに仕立てる場所では、その座標が完全にではないけれど被っていて、その完全ではない部分、被っていない部分のことを、言葉にしたり追ったり、あるいは好きになったりすることに、そのコンテンツを好きになればなるほど最近は少しずつ後ろめたさを抱いてしまったりしているけれど、その単純なベン図のもっと向こう側で、それをひっくるめてひとつの生きざまですと言われたら、逆に安心してしまうかもしれない。何度も聴いていると気づいたら終わっている、3分ちょっと。

人間の肉体は健康に過ごしていても100年くらいで終わってしまうから、私たちの多くはきっとそのときが死ぬってことなのかなと漠然と思ってはいるけれど、その一方で死なない何かを信じていて、ほんとうは肉体がなくなってしまうことなんて死のありようですらない些細なことなのかもしれないとふと思ったりもして、それはそれとして、時間を経て目の前から姿を消していく大切なものをまっとうに惜しんではそれを死と呼んだりもする。

モニターが額縁だ。切実な歌声のわりに画面に描かれるのはすまし顔だ。ループ再生のアニメーションの中でトカゲ?の動きがどこか生々しい。

そこにいることなんて誰にでもわかっていて、ただし、私たちは「みせられて」いるのだという、ただそこにいるのを見ているのではなく、そこでみせられているのは人格という見世物で、そしてこちらからも、お互い魔法にかかったふりの、おままごとのような。でもそれがその形だからこそ本当に素晴らしいと思っていて、いつまでもいてほしいなあと、手を伸ばして、それが全体的に虚構であることに、逆にどこかほっとしていた。荒屋の生活は思い出すだけ無駄らしい。そうかもしれない。

こちらを向かないまま無表情で髪をほどいてみせる。金魚も猫もいない荒れた未来の机の上のモニターに、月ノさんの姿はない。ないけれど、続きがあるような。残り時間の少ないヒューマン、あなたの気持ちが1000年。つくられる自分からつくる自分に向かって、見ててあげるわ楽しませて、といっているように読み取ることができる。「ヒューマン」「あなた」とはまた月ノさんなのかもしれない。1000年生きるのは、彼女自身であり、あるいはその気持ちでもあり、私たちでもあるのかも。良くも悪くも、Vtuberをつくるのは本人とリスナーだから……でも、だれかが憶えてくれている限り生き続けるみたいな、つまり気持ちだけが引き継がれていくことで続いていけるという話ではたぶんないんだろうとも思う。作者が死んでも作品が生き続けるというわかりやすい話が、作者と作品の座標の重なりによって……作者本人が作品であり、そしてその作品が、すでに時空を飛び越えた、ここではないどこかに息づくものとして、存在している……、作者自身によって歌われることで、どこか凄みを帯びている。切実な人間の声が歌っている。

もう誰も憶えていてくれなくなる時が来ても、生きているものは生きていると、それは私が思っているからかもしれないけど、生きているというのは、外からじゃなくて内側からのものだとなんとなく信じている。そういう意味で生きるとは残ることなのかもしれないと思う。そして、『1000年生きてる』の歌詞はここでは残ることへの執着であり、このカバーを聴いていてvtuberがひとつの生のあり方なのかもしれないと、他でもないその残ることへの執着から、強く感じさせられることが、なんだかうれしい。「生き汚く生きて何かをつくっ」てまで、残ること、同時に残らせること、作り手と作られるものの重なった座標が、そうさせていること。……

タ行の舌があるとわかるような発音や、息づきそのもののような息、歌詞としてはそこまででもないのかもしれないけど、MVや歌声を一緒に見て聴いていると、記録としてインターネットの巻物に残るという意味だけの残るではなくて、100年後とか1000年後とか、そういう世界でも、変わらない感じで画面の向こうにいてyoutubeで雑談をしてくれているような、本当はあり得ないはずの未来の像を、あり得ないままで、真顔で語ってくれているようなすさまじさがある。それは、それが本当は永遠には叶わないことであるということへの恐怖や簡単な諦めが、根底にあるからかもしれないけれど、少なくとも今は、永遠に生き続けるコンテンツとして、そしてパソコンの光の前でそれを視聴し続けている自分も、もちろんそうなのだ、今は、という。むしろ刹那的ですらあるような、そういう凄絶さがある。私たちは作品の前の有象無象にすぎないけれど、有象無象も、1000年生きるのだ。今は。そしてそういう意識は、冗談のように誰もが受け入れている、その制服や年齢や黒髪が、当たり前にそうであり続けることと、似通っていると思う。そんなわけがないからこそ、そう固く信じることが帯びる意味のこと。

この歌ってみた動画が公開されてから、月ノさんが半年くらいの活動休止みたいな感じになっていたこともあって、それで思い入れがあるのかもしれない。元気な姿で戻ってきてくれてよかった。あとツイキャスが好きなので、月ノさんの活動形態が変わってから、不定期にツイキャスが聴けるようになったのも嬉しかった

 

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いきのこり●ぼくら、チュープリやきゅうくらりんが披露されて、ウクレレ音源なのもあってか、想像以上にすごくすごくよくて、何度も聴き直している。月ノさんにうたわれることで新しく紡ぎなおされる世界観がある。あと、私はきゅうくらりんが悲しい曲として歌われるカバーがすごく好きだ。

歌っている間だけ、体勢の都合でlive2dの動きが止まるので、あらかじめ画像に差し替えられる。2020年のウィスパーボイス歌枠では、実際に動きが止まったまま、そういうものとして配信が続行している。

笑いすぎて仰け反った時や何かで振り返った時、動かなくなるたびに、いることを感じるのは不思議だ。それでいて、変わらず信じているのは紛れもなくその、固まっている像なのだから不思議だ。素材の光が回っているのを見ている。素材の車窓の向こうの星空。そこに、あるとわかるものの少なさが、そこにあるもののことをしらじらと映し出すような。

変だけど、四肢のある3dの像よりlive2dの像の方が、いる感じがする。遠い方がいる感じがするというか、遠い方が自由だと思う。もちろん手足が動いていて、ただの反復ではない呼吸が見てわかるような姿にはそれにはそれの感慨がある…けど、逆に、手も足もあるのかわからなくても、次元を落とすという手段によって逆に見た目の通りにあれる という形の自由さと、そういう変身のもたらす救いのようなものを、勝手にlive2dにみていて、向こうでどんなかたちをしていても、画面の端で揺れている「絵」というかたちで、遊んでいる状態こそが、その次元でひとしく自由であっているような、よくわからないけど、それでうれしくなるような感慨が、ある種の不自由の中にあるような気がしている。

なんでもいいか。そこにいてくれてうれしい。

 

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月ノさんのウクレレ音源での歌唱を聴くと、いつでも2021年の誕生日ライブの最後を飾ったアンチグラビティ・ガールを思い出すことができる。エッジボイスの切実さと力の入るところ、抜けるところに沿うような不揃いなテンポ、準備はもうできてる……

心のどこかを直接触ってくるような声をされていると思う。まるでファンタジー、すばらしい日々。そこにいるのが、誰なのか、考えて、本当に1000年後もこうしていてくれるかもしれないような気持ちになって、それでも寂しくなることはない。そしてそういうとき、3dの姿を見ながら、本当に遠い遠いところにいるのだこの人は、次元なんて関係のないところに、その四肢や黒髪や制服は、可視光の向こう側にいるようなこの人が、私たちが目で見ることのできるように用意してくれたもろい像にすぎないのかもしれない、と思うし、それは私がlive2dにみている穏やかなうれしさに、なぜか似ているのだ。

バーチャルyoutuberのことを何も知らない。聴いていた匿名ラジオに偶然でていて、そのあと聴いた雑談が面白くて好きになっただけだから、にじさんじの初めの方も、そのころVTuberの世界にあった色々なことも、技術のことも、あまりよく知らない。月ノ美兎さんのことを、そういう象徴的な、歴史の中のレジェンド的なひととしてみたことが、恥ずかしながらあまりないので、そういう象徴としてもある彼女のことをちゃんと考えることができないのですが、妥協のないコンテンツであろうと頑張り続けられている姿が、存在じたいでファンタジーめいている世界とたたずまいと両立されていることが、素敵だと思う。かわいくて面白いのがずっとそうなのは、強さだと思うし。

1000年も生きられない人間が、1000年後もここでこうやっていますよと、真剣に歌うとき、そこに、クリエイターでありクリエイションでもある彼女という現象をみて、それが、遠いなあと思う。動かなくなる像から聞こえる、切実な人間の歌声にも、そう思う。