ホラーゲームの実況を観る/暖かい反射光の中にいる

 

伏見ガクさんの配信を見ている。朝配信の他は、ホラーゲームの実況が多い。たまにあんまり誰もやってないようなマイナーなやつを実況されていることもあって、わりとそれが好きだったりもする。

ノベルゲームも3Dのやつもドットのやつも面白い。謎解きは沼ったりするし偶にめちゃくちゃ声が大きくてびっくりするけど、それもまたいいと思う。(声については、本人がコンプレッサー?:音量バランスを整えるやつ…を使ってわれわれの鼓膜に配慮してくれているのですが、逆にそういうことをしたうえであれだけ叫んでいるのがかなり面白い)

自分が元々ホラーが苦手で、根底にはグロ耐性がまるでないということがあり、さらに映像作品がなんとなく苦手だということも相まって(私は、映画もアニメもドラマもほとんど見ない)、ホラーゲームの実況というコンテンツには縁がないと思っていたのだけど、偶然もちもちのイケニエノヨルを見てからにじさんじのホラーゲーム実況を見るようになった。

耐えられたとかではなく別に全然めちゃくちゃ怖かったのですが、実況という部分を挟むことで、プレイングと怖いものへの反応も込みでホラーを鑑賞するみたいな形が、ホラーと自分をぎりぎりつなぎ留めてくれたような感覚がした。ただ、もちろんいつか全部を自分でもやってみたくて、心と相談をしている。

 

叫び声の方が怖いからってホラーゲームが怖くなくなることない。全然怖い。でも実況する人が自分より怖がっていようが、全然怖がっていなかろうが、私にとってはあんまり問題にならない気がするし、怖いからこそ良いんだと思っているので、重要でもない。不特定多数が見守る前提でリアクションを交ぜながらプレイしてくれているということが大事なのかもしれない。

伏見さんの配信については、2021年の、花子さん…彼パチ…とかをリアタイしてから興味を持ったような気がする。連続して、ひとりかくれんぼとかグノーシアとかも観た。ちなみに、もちもち:椎名さんと剣持さんのホラーゲーム実況も本当に好きで、paranormalHKとinflictionはずっと心に残っている。お互いにそれぞれ違う得手不得手と見せ場があって、それが発揮される場面があるというところがすごくいい。

初めのうちは、たぶん本人のことにはあまり関心を持っていなくて、伏見さんのホラゲ実況という括りでコンテンツを楽しんでいた。実際、彼のYouTubeチャンネルおよび配信はそういう享受の仕方がしやすい、本棚と本のような様相をしている。ホラーゲームの実況の配信は、冒頭や終わり際に雑談のパートがほとんどなく、そう決めているのかと思うほどさっさとゲームがはじまる。そう思えば、実況する人より実況されるゲームの内容を、実況をとおして楽しみたいという当時の私の求めるかたちに、確かに近いものなのかもしれない。

 

一番好きなやつの再生リスト↓

【ホラゲ】Happy's Humble Burger Farm 

 

 

サムネも毎回こんな感じで良い。

 

 

 

観ていると、自身のことを、ジャンルごとに切り分けられるコンテンツかのように扱っているように思えることがたまにある。というのは、配信の中身のジャンルによって話す内容や雰囲気が統一されているような印象をとても強く受けるからで……、たとえばそういう意味でも、最近リニューアルされた配信のレイアウトの、同じデザインが色違いになっている仕様は、そのニュートラルなフォントなども含めて、とても似合っていると思う。(以前の、雑にテロップを置いたり画面上に文字を直打ちでメモしたりするのもすごく好きだったけど…。)

すべてに地続きで通っているはずのそのひとらしさみたいなものを好きになるのは、伏見ガクさんの場合は、逆に、まさにその本人によって割り切られた配信のあり方みたいなものからかもしれないと思うことがあるのだ。

朝配信は、うまく言えないけれどこう、徹底されている。私は、深夜に猿のお化けとかに追いかけられて笑っている人が、6時台から週一で朝ご飯の配信をしているということがあまり繋がらなくて、高めに保たれたテンションで大量のリスナーの朝ごはんをひたすらに次々紹介しては余さずほめていく配信のアーカイブを、なんだこれは…と思いながら見た覚えがある。緩急の少ない、かといってだらりとリラックスしているわけでもない、ひとつのまとまったルーティーンのようにリスナーと時間を過ごしていく様子は、どこか和やかすぎて粛々としてもいる。

雑談枠、とも違い、主役は一貫して朝ごはん(を、通したリスナーとの交流…)にある。確か私が見始めた時は、視聴人数もあるのだと思うけど、自動スクロールを使わず手でTwitterのタグ検索結果をなぞって、今よりひとつひとつを読んでいたような気がする。無理やり起きて朦朧とした視界の中で、きれいに盛り付けられた料理や間に合わせのコンビニご飯(えらい)の写真を伏見さんが手に取って、感想を口にしていく繰り返しが、流れていって、その全体的に一定に保たれた温度を読み取るたびに、こういうふうにしたくてこうしているのだな。とわかる。

朝配信は、最後に出勤や登校、就寝、などその後を過ごす視聴者にチャット欄でメッセージが送られて、〆られる。直接的に背中を押すような言葉に元気づけられるということはもちろんあるけれど、おそらくそれ以上に、そういうことを毎回丁寧に行い続けているという途方のなさに背中を押されているというほうが個人的には近い。配信の告知をして、その時間の通りに配信を始めて、同じような流れで配信を進めることが、同じようだからといって決しておざなりにならず、5年間続いている。それに惹かれるのは、少なくとも朝配信においては、中身がどれだけおもしろいからとかではもはやなくて、配信そのものよりも、その向こうで粛々とひとつのことを継続している人へのぼんやりとした敬意があるからだと思う。(それとは別にして、朝の全体的にボーっとした時間の中でのよくわからない話とか朝からこんなに元気で大丈夫か…みたいな所は面白い)

最近の遅刻した時の配信で……伏見さんは遅刻すると毎回本当に世界の終わりみたいなテンションで謝罪をしていて普通にヒヤヒヤするのですが……「もうどうしようもないんだっていう、感覚、ですかね……。」「朝ご飯を食べるっていう観点上絶対に遅刻はしてはいけないコンテンツだと思ってて…(略)これについてはもう本当に、そうでしかないので…」など言っていたのが印象的だった。どちらかというと、生配信ならではの偶然のハプニングまでもを楽しむという形より、生配信でありながら、プログラム通りにきちんとコンテンツを遂行するという形を目指しているような印象を抱くけれど、そういう姿勢でありながら、生配信を選び続けているというところには、リスナーとの時間の共有が目的としてあるんだろうなとも思う。

たとえば自然体や話しやすい話し方とは違う、ありたい像やありたい話し方を「顔」としてキープしようとする姿勢があって、その姿勢の中に、含んだり追加したりすることを選んだ人格の一部がある。それをいいなと思う気持ちは、配信そのものから踏み込んだ何かへの好ましさだと思う。

作ったものをただ見せるのではなくて、一緒に作っていくことを目指していることが伝わる機会がいくつもあり、しかしそれは、他でもない彼自身の目指すところであって、それで誰かにおもねっているというのでもない。リスナーや周りに許容・評価されるかされないかではない、本人なりの理想としている像があって、そこに向かって頑張るのを、われわれは画面の向こうで観ているほかなくて、そしてその応援の営みこそが、跳ね返るようにして自分を元気づけている。ひとつの強さだと思う。

 

2020年の誕生日配信や10万人記念配信には、褒められて逆にふるまい方に迷うようなところや、自分のことを上出来でないと形容するところがあるけれど、そういう、単なる謙虚さでは決してない自然な自己評価の低さのようなものに、私は彼なりの光り方を見ていて、その作られた、けれど確かさのある眩しさの中で、その奥にある漠然とした、姿勢や人格のようなものに、それらしい言い方をすれば救われている。直接背中を押してくれるような言葉や振る舞いよりも(もちろん、それもすごいことだけど)、こういう人がいるということ自体がありがたくなるような気持ちになっている。キモいな。すみません。

 

そういえば、私はニコニコも個人サイトもmixiもアメーバも通っていないのに2chのネタだけはずっとずっと前から知っていた気がする。もちろん当時の2chも通ってない。何を見ていたんだ…
↑キッズにまぎれて学生掲示板やフリーのチャットルームにいたので、そこかもしれない。思い出さない方がいい気がする

 

真面目で優しいということが、手放しで褒められることではないということを知っている。そして、伏見さんが自分の優しさ……といわれる部分……をあまり自分から誇らない(それは慎ましさというよりは、本気でそうしているような…感じ)ことや、お人好しという表現をはっきりとマイナスな意味で捉えているところを見るたびに、私はそれを確認しなおす思いになる。そして、彼がそのままで……それは、いわゆる、中身…のようなの(だけ)ではなく、その名前をもって生まれたおのれとしての人格としてその部分を引き連れて……生をやっている、ということに、いちいち感動している。

自分がどのようなキャラクターとして在ることにしているか、どういうものを尊重したいか……というようなことがすごく意識されているように感じる。それは本性が隠されているというような意味合い(?)ではなくて、まさにそれを本性にし(ようとし)ているという意味で、そしてその、しようとしている という部分に多分惹かれている。

本当にそう思っているかとか、本当にそういう性格なのかとか、関係なく、そういうふうにあろうとしているというだけで光っていると思う。私はその、自分の目には眩しいくらいの明るさの中で、たまに我に返ったようにそれが、自分からの静かすぎる応援の気持ちの跳ね返りであることに気づいている。