『夜なく蝉たち』よみ(雑感)

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家長むぎさんの中編『夜なく蝉たち』を拝読し、うおーと思ったこととか、関係あることとかないこととか。

 

 

誰かを隣において過ごすことと、そうすることを決めることがとても怖い。その誰かは人ではない犬とかコンテンツとかでも同じことで、多分、自分と同じくらいかそれ以上に大事な存在を自分以外につくり、そしていつか失うことと、その喪失を自分ではどうすることもできないことへの怖さと、あるいは、自分の生活やその積み重ねにぴったりと添うものをとにかく気持ち悪く思う気持ちがそうさせている。誰かが居て楽しいと思うこともたくさんあるけれど、最終的に一人に戻ったとき、朝起きて隣に誰もいないことを確認しては、いつも呼吸を取り戻す思いで安堵する。自分が拠るものを自分以外の何かだとすることをとても怖く思う。同時に、誰かの唯一の拠り所に自分が選ばれることも。すべての存在の確かさを危ぶむとき、これさえあれば幸せになれると選ぶものは、選ぶとすれば自分以外にありえないような気がしてくる。

 

 

 

江國香織の短編『熱帯夜』を思い出す。『夜なく蝉たち』とは内容は全然違うけれど、世界のはずれといわれるような場所で身を寄せ合い、お互いの位置を確かめるように言葉を交わし、そこで、そこだけの愛が行なわれる。言葉にできない関係とか、言葉にできない感情とかいうけれど、どんな関係や感情にも本来名前をつけられるようなものは一つもない。友情や愛や恋慕や家族が一体何なのか、いつまでも説明できないままで、手の中にある目に見えないものを寝て起きた後もなんとかつなぎ留めておくために、あるいはそれによって自分を安心させるために、私たちはそれに無理やり名前をつけて、社会的な意味を持たせた制度にしたりしなかったりして、そこに含めたり除いたりを繰り返している。愛とはなにか、愛するとはなにか、なにを愛しているのかをよくわかっていないままで、誰かの作った言葉で軽率に愛することをカテゴライズしている。

意味をもつのは、言葉にしないという行為それ自体なのかもしれないと思う。

この関係に名前をつけないでいようと確認しあうことすら、大抵は約束の色を帯びる。倫と蛍の結ぶものは、彼らと、そして私たちのもっている言葉の引き出しにない名前の、それでもなんらかの関係として位置づけられ、それはもしかしたら赤の他人から勝手で軽率な言葉で形容されてしまうこともあるかもしれないけれど、それによって彼らの関係が壊れることはない。逆に、彼らが彼らだけの言葉でその関係に名前を付けたとき、それが私たちの知っているある言葉と一致していたとしても、厳密には関係がない。誰も立ち入ることのできない堅固な領域を、言葉があればつくることができる。そしてそれが他でもない言葉であるということが、逆に彼らを縛りもする。

どうしたらいいのかわからなくて、どうしたいのかわからなくて、一緒にいたくていたくなくて、一緒にいることで勝手に付与されそうになるラベルを爪を立てて剥がしあっては、なお脈打つ生きものの在り様を、ただ撫でて輪郭と温度を確かめる、という営みを『夜なく蝉たち』に見た気がした。

私たちは同じ言葉を使っているつもりで、それが何を指すのかなにひとつわかっていない。ただ、共有されている曖昧な定義の、まわりを廻っている近似のものものを言い当てているだけだ。名前がついたものも、ついていないものも、本当はあまり変わらない。でも、その名前を口にしたときに目の前の人にやんわりと共有される何かを信じているし、だからこそ逆に、あえて名前を付けないということが、なんらか意味を帯びることも確かだと思っている。その確かさを手でさぐって、なんとなく触れたような気がする感覚を、『夜なく蝉たち』はくれる。それは、読後、知らない誰かが大声で何かを話している終電の地下鉄の中や、黙って項垂れてカーテンの隙間からの光芒を皮膚にうけている、昼下がりの布団の上で、私たちを曖昧に受け入れてくれさえもする。この小説にあとがきの前の解説がなくてよかったと思った。

 

 

理由がないのに涙が出ること。親密になる代償として失われる、親密でなかったときに見せてくれた、そしてそれを以てその人をいいなと思えたような他人に対する態度のこと。足りないと思うこと、もともと持っていなかったはずのものの欠落を思うこと。いるときといないときとで大きく変わる世界の色合いのこと。寂しさのことが好きだから、長い寂しさの描写が好きだ。多分、私が寂しくなることのすごく少ない人だからだ。できるならばすべての関係の糸を切ってたった一人になってしまいたいとすら思うことがある。親しい人は何人もいるけれど、自分の根幹の部分をすべて知って欲しいと思ったことも、生活や人生をともにしてほしいと思ったことも一度もない。そして、愛を向けられ注がれることを拒みたくなる感覚は、それをずっと与えられてきたからこそ持てるものだということもわかっている。それでも、自分が、立場にかかわらずなんらかの唯一の執着を向けられることに耐えられないことは確かである気がしていて、それだけの意味でなんとなく、私は蛍の言っていることがとてもよくわかる気がした。きっと嫌いなのではなくて耐えられないのだ。距離のある関係にばかり安心して、いつかある線を相手が越えようとするとき、ありえないほど全身が冷え切ってしまう。知らない部分をそのままにして、線を引くことを許してくれる人は少ない。

倫と倫のお姉さんに蛍が見せた、他にくらべれば粗い感情と言葉を思い返している。損をしているとも不幸せだとも思わない。私たちは得な人生も幸せな人生もまだ説明できない。ただ各々の中に各々が見つける人生観を、他人についてもそうだとすることを軽率だと思うだけだ。他人を介した自由は不自由になるだけだから。自由とはなんだろう。関係は消費されて擦り減っていくものだ。そうなんだろうか。でも、蛍の中にはあるのだ。尊重したいと思える人の前で、寂しさと愛しさに苦しみ確信がほしいと呻く蛍のことが、理解できなくとも好きだと思う。自分の抱えているものが何かを知っている。煙草と花火のところがすごくよかった。アイスコーヒーのところも好きだった。

誰かと……言葉を選ばずに言えば……ルール違反なかたちで一緒に居続けるということの、危うさと刹那性と、逆に生まれる確かさのようなもののことを、そしてその確かさのもつ輝きへの羨望と憧憬のことを、私はかつて『熱帯夜』を読んだときに思ったことがあったのだ。拠り所とはつまるところなんなのか。倫に限っては寝食を共にすることを厭わない蛍のこと、一緒に西瓜を食べる相手はいらないけど、一緒に食べたいと思うこと。おかえり。とお邪魔します。の積み重ね。所謂拠り所になどしないと決めた関係を結んだはずのその人が、いつかある日おもむろにその糸を引きちぎって、わたしは運命に引き寄せられたのだ等と、言って、自分とは違う大きな何かを見つめていたら。そこに確かにあった糸が、自分の足元にだけ垂れているのを眺めるとき、その喪失はたぶん結局私が恐れているものと同じだ。それが苦しいものになるなら、その人はある種の拠り所でなくてなんだったのだろう。あるいはそれでも、この人とは偶然、隣りあった植物のようにただ横で生きていただけなのだとか、この人との唯一の形はほかではありえないのだなどということが、彼らをなお悲しませずにいられるのだろうか。喪失のもたらす大きな悲しみすら愛せるような。そんな関係が、あるのだろうか。名前をつけようとつけまいと、定義や約束を取り付けようと取り付けまいと、そこに生まれる唯一性を帯びた尊重や慈しみが変わらずあるなら、一体どうやって?

ひとりぼっちのままで一緒にいるなんて、あるいはこの人しかいないと思った人とすべてなげうって一緒に生きるなんて、それで幸せになるなんて幻想だ。フィクションだ。悲しみすら大事にできるなんて美談にすぎない。そういうふうに、私は『夜なく蝉たち』を読んだときも、『熱帯夜』を読んだときも強く思っては(そうじゃないかもしれないのに!)、なおかれ彼女らの手の中にあるように見える、確かに幻想ではないきらきらとしたものに焦がれている。長くは続かないかもしれない関係の、その先の破滅まで描かれないと怖くて羨ましくてしょうがなくなってしまう。破滅が決定しているわけでもないのに。それは破壊衝動でも憎しみでもなく、私に、それまでの生活やあらかじめ自分のそばにあって、自分のものとして育ってきた規範をはずれる勇気がないからかもしれない。

そして、私みたいなのが世界には沢山いるのかもしれないと、それからそういう人たちが、虚構めいてすらいる、一緒にいたい人と世界の片隅で手を取り合い、あえて名前を与えない関係を結んで生きていくということに対して、何を抱くのかということに気持ちを馳せる。あんまり関係ないけど、家長さんが確かどこかで挙げられていたニーチェの悦ばしき学問に、『星の友情』という節があったのを思い出している。

ずっと一緒にいたい。それに応える倫の指に、隅まで血が通っていること。救われているようで突き放されているようでもあり、ただ読んだあとと読む前で、どこかが変わったような目の前の景色を、何度も何度も茫然と見つめている。

 

 

 

 

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